憧れの場所は遠いまま

キャンプと山と人事とインド

冬へと走り出そう

11月26日

 

インドの大気汚染は11月初旬に比べれば大分ましになった。
今日なんかはしっかり青空が見えた。霞がかった陽光がまぶしくて、4月の日差しみたいな感じがした。期待と不安が入り混じった、少し痛いような陽の光だ。

ミシェル・ウエルベックという作家が素粒子という作品の中でこんなことを言っている。
「年齢のオブセッションって、すごく早くから始まるのよ。二十五歳でもそうなっている人がいた。しかもあとは悪化するばかり」

 

インドで日々仕事をする中で、苦しさというのには馴れてくる。人の適応能力はすごい!と思う。すると、若いからだよとか言われる。そうなのかも知れない。
でも、僕はこの26歳という年齢と上手く折り合いをつけることが出来ない。いや、折り合いをつけられない自分を許していたい。

 

昨日夢を見た。僕は大学のサークルに顔を出していて、そこにいる二十歳の見たこともない女の子を好きでいる。二十歳の女の子、っていうものの懐かしさも相まって、僕はとても深い愛情を感じている。すごく一緒にいたいし、これから先、あの頃の自分が出来なかったような素敵なことをしてあげられる自信に満ちている。そして、何よりも若さを取り戻したような気持ちがして、とても幸福だ。

 

朝目が醒める。いつもの壁がある。薄暗い陽の光の中で、僕は自分の年齢が二十六であることを確認し、絶望的な気持ちで顔を洗いに行く。鏡に映る自分の顔が二十歳の頃とどう変化したかなんて分からない。でも、二十歳の顔ではない。

 

僕は曖昧な期待を人生にしない、と誓った。二十四歳のときだ。自分がつかめるものがあるとしたら、それは摑むことを目標にし、それに向かって漸進的かつ具体的に努力したときにだけだ。世界が無条件に広がっていくことは今後あり得ない、と。何かを楽しみにするのはもうやめよう、と思った。

曖昧な期待だけで人は生きていける。だけど曖昧な期待を失っても人は生きていける。

リスクヘッジだが健全な考え方だと思った。

 

二十四歳か、まあ若いじゃないかと今の僕は思う。
つまり年齢へのオブセッションは悪化していくのだ。
エイジング社会学という授業に大学のときに出席していた。老いとどう付き合うか、老いが持つ価値についての授業だ。僕は老いが、こんなに精神的にダメージを与えるなんて思っていなかった。


若さってのは傲慢だ。二十六歳でこんなこと言ってたら、嫌な気持ちになる大人もいるだろう。若さは傲慢だ。二十六歳になっても、自分のことなんか考えたくないけど、ずっとここにいると向き合わざるを得ないし、その時間が少し長いよ。世の中の役に立ちたい。