憧れの場所は遠いまま

キャンプと山と人事とインド

(導入)カータースタイル・フラットピッキングとケララ産できめて

10/22日 土曜日

 

インドで働いています。

考えをまとめるツールとしてブログを初めてみたけれどたった一回で更新が滞ってしまった。

 

理由は、ここ数週間ずっと考えていることがまとまらないからである。

 

私の生活の一番の関心事は「人材育成」と「学習する組織のグローバル展開」という二点にある。これら二つの語義を私なりの文脈に沿って説明するのはちょっと大変かつ実は頭が混乱していて、今の自分には問題意識から考察までを筋だって説明することが出来そうにない。

 

そして、これら関心事は「仕事」を超えて、インドにおける私の日常生活にもどっぷり侵食してきている。なぜなら、学ぶ機会というのは日常のあらゆる場所に潜んでいるため、「育てる」や「学習」を考える以上、目の前に起きるあらゆる出来事、過ごす時間というのが観察すべき対象に見えてくるからだ。

 

仕事に追われている、という感じではないのだ。業務のオン/オフは勿論ある。ただ、私の生活の日常/仕事という区切りが曖昧になってきていると感じる。良いことなのか、悪いことなのかは良く分からない。関心の果てに私が成し遂げたいことが、見つかったと思ったらすぐ見えなくなる。

 

Openness to Learnと年齢の関係について昨日インド人の同僚に議論を持ちかけられて、僕ともう一人が年齢とともにOpennessは減退すると思うと言って、一人は変わらずにオープンである、と言った。

僕がそう言った理由は、幼年期の学習への開けた姿勢は生存本能から来るもので、世界で起こることとその対処法を学ばないと生き残れないから、というものだった。防衛のための行動パターンを一通り学んだら、後は日常における情報処理コストを下げるために過去に学んだパターンを参照するようになる。年をとっても常に新しい刺激から学ぼうとするのは、非効率的だから、というものだった。

こんな思いつきが正しいのかは分からないけど、僕はどうやら大人になれば「自然には」学ばなくなると思っているらしい。私自身、実際学ぶ意欲がない。勉強しなきゃってすごく思うけれど、それは危機感を煽られているからで、すごい人達やビジネス環境などの脅威から身を守るための、はりぼての生存本能みたいなものだ。

たまに意欲が湧いたと思ったら、トカトントン、てな具合だ。

 

いつか自分の中で決着をつけたいのだけれど、こういう状態になっているのは血は争えないという遺伝的な部分と後天的なコンプレックスの組み合わせなのだと思う。自分の話は浅ましい。いつまでも思春期の高校生のようなマインドでいるというのは、健全に成長できないということで、健全に成長できないというのは、馬鹿ということなのだ。たいしたことのない学をひけらかすのは浅ましい、などとゆらゆら。

 

26歳。私は30%くらいは自分の人生を生きたくて、残りの70%は自分の人生以外を生きたいと去年くらいからずっと思っている。

100%自分の人生を生きたいと思わない、というのは実は普通の感覚で、それが家族を持つっていうことなのかとも思う。家族は自分の人生に含まれるのか、自分の人生以外に含まれるのか、というのは未だよく分からない。来週友達の結婚式のために日本に一時帰国する。

ただ、僕の言う自分の人生以外を生きたいというのは、自分の利益、幸福の追求とか自我という幻想と離れた場所で、この身体と時間を誰かが他の人が誰かのためだけに使って欲しい。そのくらいじゃなきゃバランスが取れない、という感覚。

 

人事的な記事が書ければ良かったのに駄目でした。いつかまとまったら書きます。書くときは本気で。

 

ここまでがなんていうか今日の導入部分なんだ。リーダブルな記事を書くというのをブログのテーマにしている以上、こんな自意識まみれの日記で終わらせるわけにはならない。

まとめ系ブログみたいに有益な情報をかき集めることもままならないので、ブログのタイトルについて説明しつつ、すばらしいロックンロールの話をします。多分この話さえ出来ればインドについて書けるはずで、そこにはインドの面白い話も含まれるはずなんだ。そしたらある程度リーダブルなブログになるはずなんだ。

 

分けて書きます。

『カータースタイル・フラットピッキングとケララ産できめて』

 

続く