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こつこつと

こつこつと生きる。

アイラ島のシングルモルトに憧れたのは大学生の頃だ。

その頃、僕は中央線沿いに住んでいて、魚と焼き鳥の美味しい居酒屋でアルバイトをしていた。魚と焼き鳥が美味しければ居酒屋としては文句のつけようがない。

美味しい魚と鶏肉を手に入れられるのであれば当然美味しい野菜も手に入れられる。そうして、その居酒屋は常に、と言うほどでもないが知る人は知る店として繁盛していた。

僕は常連に前髪を切れと言われたり、姿勢の悪さを指摘されながらも、心地よく適度な距離感で過ごしていた。

ある常連は僕にコトラーを読め、と常々言ってきた。フィリップコトラー?僕はマーケティングのゼミにいたがコトラーがなんとなく嫌いだった。

コトラーは人間の最も単純で空っぽな部分の真ん中にあるような気がしていた。マーケティングの面白さはその空っぽに肉付けした外側の部分だと思っていた。最初から間違っていたおかげで、不思議な正解があるということのリアルさが好きだった。

村上春樹の小説に出てきそうな、タフでシステマチックでどこか哀愁を抱えた男性だった。いつも一回りくらい若い無口な女を連れていた。

そう、そこは村上春樹的な時代だったのだ。

 

アルバイト代は現金支給だった。毎月最初の出勤日に前月の給料が現金で手渡される。僕は給料日にはそれを握りしめ、深夜一時過ぎに店の掃除を終え、夜の街に繰り出した。

その街には時間の止まった通りがあった。通りの店は割と入れ替わりが激しいのだけど、それは通りの空気に何1つ影響を与えていないようだった。

 

店は通りにはバーがいくつかあり、僕はそのうちの1つに入った。背伸びが必要だった。最初はどんな言い訳をしてバーで酒を飲もうか、と思った。

 

店主は場違いなやつが来たという目で僕を見た。僕は正直にウイスキーへの憧憬を語った。店主は柔和な笑みを浮かべ僕にシングルモルトやコーンウィスキーやバーボンを教えてくれた。

 

ラフロイグをソーダ割で飲んだ。8杯くらい飲んでタバコを十本くらい吸った。

キャメルナッティメンソールというタバコ。

愛してやまないタバコだった。

午前四時にふらふらしながら帰宅して女に電話をした。その子が今どこで何しているかと考えると不思議な気持ちになる。そんな人が本当にいたのか信じられない。

 

日々は過ぎて行く。感情は記憶で、記憶は嘘だ。好きだった、という言葉はそれを証明できない限りにおいて真にはなり得ない。真でないものは嘘である。そういう極端さで失ったものの数を数えてみても3つ以上は思い出せない。

 

後悔するには時間が経ち過ぎているけど折り合いがついていないものが人にはある。

 

エリクソンという心理学者を愛していた。青年期に自我を確立できないことの恐怖は呪いのように僕を締め付ける。抑圧されたものは回帰する。反動形成の結果がいまとここだ。

 

目の奥を抑えて、呟く。

家族が狂ってるんすよ、日本帰ってもいいすか?

 

男は答える。

うちも大変なんだよ、親父が死にそうでさ。

 

僕は黙ってしまう。

親父がいないより、死ぬことの方が大変だよということをよく分かっている。というのは傲慢だ。

僕の沈黙は傲慢さの顕れで、家に帰ってiPhoneで何を聞こうかなと考える。

 

ブルーハーツが10年前より優しい。

がんばれー、だって。ありがとう。