憧れの場所は遠いまま

キャンプと山と人事とインド

生活の柄

 

早いもので、3月ももう25日になっている。25日が土曜日ということは金曜日に給料が入っている。先月の給料が入ってからもう一ヶ月か。給料はずっと手付かずだ。

 

ムガルガーデンという大統領官邸の庭園が期間限定で公開されていたので、並んで見に行った。色とりどりの花が綺麗だった。日本だともっときれいに剪定したり、水の流れを暗渠化するな、と思ってしまったりするのだけれど、そういう感覚がうっとうしかった。入場までに一時間くらいならんで、中に入ってもずっと行列になっていた。みんなそんなに花を見ずただ並んでいるのを楽しんでいるようで、それを見ているのは愉快だった。

 

春が来て、とても温かくなった。家には暖房が無いため、オイルヒーターで凌いでいたけど3月からはもういらなくなった。

 

二週目にはホーリーという春の訪れを祝う祭りがあって、2連休だった。僕は意気込んでデリーから深夜バスに乗り、リシケシュという街に行くはずだったのだが、バスを手配した代理店の不手際でバスに乗れなかった。夜11時にデリーの街中でぽつんと煙草を吸っているのは寂しかった。ぷらぷらしながらちょっと恐怖心を弄んで、その後Uberに乗った。こういう面白体験は別に望んでいなくて、ここの水準で構わないので地に足をつけた生活を送りたいのだ。

リシケシュはビートルズがホワイトアルバム作成時に滞在していた場所として名高い。バスの座席で”Dear Prudence”を聴いてわくわくしていたから、思い出すだけまだで少し悲しい。

 

飛行機で行くことも考えたけど、何だか疲れてしまって、家にいることにした。

代わりに自宅で村上春樹の騎士団長殺しを読んだ。天気が良かったのでリビングのカーテンを解き放ち、ソファにずっと横になっていた。ロンググッバイであり、グレートギャツビーであり、羊をめぐる冒険であった。

 

並行する世界と循環構造に含まれる子ども。ここまで読者側に降りてくるというのは晩年村上春樹の決意みたいなものを感じた。リリース時期だけではなく、作品の底を流れる川も小沢健二と共鳴していた。

 

なんとなくカルテットというドラマが面白いというのを友達から聴いていたので、観てみる。8話と9話しか観ていないけど、これも小沢健二と共鳴している。

 

見田宗介の「社会学入門」という本をちょうど読んでいて、そこで「交響するコミューン」という共同体概念が語られていた。このカルテットの四人は、比喩ではなく交響するコミューンだな、とそのリンクに深く首肯した。

 

当たり前は当たり前じゃない、白黒つけられない、今起きていることがすべてじゃない、ありえたものがまだある、ものごとはすべて相対的である。

言葉としては新鮮味のないこういったことが、改めて語られている。強い説得力と身体性を得て。流動する世界をサバイブするための優しさが2017年の表現のトレンドのように思える。

 

朝ごはんを食べない生活を10年以上送ってきた。たまにホテルに泊まるときや休日の遅い朝には、美味しい朝食を食べるのが好きだったが、平日に朝食を食べてこなかった。

3月になって朝ごはんを食べるようになった。

フライパンでバターを溶かし、卵を二つ溶いて、投入する。少し崩した後に底を焼いて、チーズを投入する。チーズが少し溶けたところでフライパンをゆすりながら卵をまるめていく。チーズオムレツ。

チーズオムレツと珈琲を15日くらい連続で朝食にしている。不思議と飽きない。飽きるほどのポーションがないからかもしれない。また、オムレツは毎日出来が違う。卵を入れるときのフライパンの温度や、バターの量や、焼き時間や、そういう繰り返しの中にある一回性みたいなものが愛おしい。

普通名詞のふりしているオムレツ(たち)。

目に触れ、舌に振れ、栄養となり、身体の一部となることではじめて個別性を得ていく感じが素敵だ。僕は毎日オムレツを食べている。