憧れの場所は遠いまま

キャンプと山と人事とインド

WBCと四年の月日

2013年のWBCはまだギリギリ大学生でその頃の私はひょんなことから浜松にいた。

2013年のWBCはその浜松の狭いワンルーム観ていた。今はデリーのアパートメントで観てるんだから不思議なものだ。

四年のサイクルの中であっちに来たりこっちに来たり、2021年はどこにいるんだろう。

そもそもWBCはあるのか、あったとして日本は出るのか。

理想としては東京五輪は東京で過ごしてその後に中東またはインドにいたい。4年がこの街をどれだけ変えるのかとても興味深い。

 

僕は半径3メートルの世界と宇宙をつなぐ法則みたいなものがあるんじゃないかな、と最近考えていて、それは『強い力によって動かされ、やがて元の位置に戻る入れ子構造』なのではないかという仮説(というほどのものでもないのだけれど)を立てている。月の公転と地球の公転と太陽系の公転だ。位置は常に相対的なものなのだ。

その見立てに従うと理解できることがいくつかある。

と言っても目の前にある問題というのはどこまでも生々しくて、曖昧で、流動的なのでそこに法則があるなんてなかなか実感出来ない。

 

けどさ、たまにそんなルールを感じることがあるんだよ。

 

例えば社会を微分していくと歴史の中に横たわる連綿たる人の気持ちがある、というイメージ。そのイメージは多分社会学をほんの少し勉強してたときからずっとある。近代を作り出した人の気持ちがどこかで未だに磔になっている絵がありありと浮かんでくるときがある。そして、そこには目の前のあなたの気持ちも含まれていると思うと、感動する。

 

ジグムントバウマンが今年一月に亡くなった。今、彼の本を読んでいるけど、社会学という想像力と物語の力に学生の頃の知識欲とは違う場所が打たれるのを感じる。

 

いつか僕がスペインのグラナダの丘で見た景色、僕が含まれない世界を知って感動したとき、ああいう感覚をちゃんと言葉で説明したいと思うのだ。

 

インドでサラリーマンやってるだけで、やたらスピリチュアルになってるけど大丈夫??とか言われる。いや自分だとわからないんだよね。

 

遠くから見ると大きいし、はっきりしているんだよ。

 

でも、大人と子どもの境界線が思った以上にはっきりしないのと同じで、東洋と西洋の違いも曖昧で、僕らの当たり前とスピリチュアル的な世界もなんだか曖昧なんだ。

魔術があった(信じられた)時代と魔術がない(と科学の名の下信じている)近代が同じ地平で繋がってるってことを考えると普通にすごくないですか?

当たり前を当たり前にしないというのは仕事でも大事なことだ。

  

自分の気持ちだってちゃんと世界に影響を与えていると思わにゃやってられんよね。

なんだこりゃ。

太宰の一日の苦労という短いエッセイが死ぬほど好きだ。

太宰を読み、ジムコリンズを読み、村上春樹をバウマンを読み、アマルティアセンを読んでも大したことはできない。祖父や母のように研究者になれるくらい頭が良ければな、と思う。

社会に出て無力さを知り、可能性の死骸を踏みつけながら、ニヒリズム陥ることなく、帯に短い己を諦めず、生活を愛する。