憧れの場所は遠いまま

キャンプと山と人事とインド

さいきんのできごとはもっぱら小沢健二

 

 最近っていつまでのことを言うんだろう。最近会ってないな、最近寒いですね、最近の調子はどうですか?最近はてんでだめなんです、なんて言葉を繰り返すわけだ。僕にとっては最近だけど、誰かにとっては遠い昔だったりするように、時間ていうのはゆがむ。個人の感覚に依存する限り、客観的な時間はなく、いつも色んなところで時間は伸びたり、縮んだりしてるのだろう。

最近:現在にいちばん近い過去【大辞林】

 僕はインドからアマゾンで、ある友人の家に最近新曲を出した小沢健二のCDを送りつけた。ちゃんと2月22日に届いたらしい。

何送りつけてんの?と連絡があり、近況を報告しあう。

こちらは相変わらずですよ、まるで時間が止まっているようです。と彼は言った。彼にとっては最後に僕に会ったのも最近なのだろうか。僕は最近のような気もするし、遠い昔のような気もする。時間も言葉も曖昧だから仕方ないのだけれど、断定できることが少なすぎる気がする、最近。

でもさ、時間が止まっているということはないだろう。進んでいないかも知れないけど、とりあえず時間は動いているよ。そもそも時計というものが循環を体現した機器であるように、時間は繰り返すものだと思う。人間だってエネルギーと血液の循環による代謝を繰り返しているし、この世の中はたいがい繰り返しベースで出来てるのだ。つまりさ、生まれてから死ぬということだけがリニア的に見えるのものなのだ。でも、多分それは勘違いというか知識不足であって、この一見リニア的な生から死という動きも大きなサイクルの一環なのだろう。循環はあるのだ。個人で言えば、来世のことかも知れないし種で言えば遺伝子のことかも知れないし、あるいは本当に永劫回帰があるのかもしれない。一回性しかないと考えられているものをより大きな循環の中にある一部と仮定すると面白い。

Life is Comin’ backというのを生の真理として小沢健二が見出したのも納得するし、まさに体現したわけだ。

 

別な友達がテレビで録画したMステを動画に撮って送ってくれる。CDみたいに綺麗な音じゃないけど、それでいい。満足だ。

 歌詞を見て気づく事は、日本語の使い方が変わったという単純な事実で、詩的だったり文学的だったりする表現は消えた分、詩的とか文学的と直接の言葉になっている。僕はカウボーイ疾走の「歩道まで散らばって戻らない砂」という歌詞が好きなんだけど、そこから膨らむ想像力を彼は今僕らに望んでいないのだと思う。この曲自体がものごとを読み解くことへの自己言及的な歌になっているので、書けば書くほど不思議なループに陥る。

これについては、別に書いているので、明後日くらいにあげます。読んでくれたら嬉しい。