憧れの場所は遠いまま

キャンプと山と人事とインド

流動体について 小沢健二新曲リリース

 小沢健二が新曲をリリースした。シングルとしては「ある光」以来19年ぶりだという。

「毎日の環境学」がリリースされたときはリアルタイムで高校生だったけれど、ピンと来なかった。いや、ピンと来るわけがない。フリッパーズギターの3枚から犬、Lifeと渡ってきた高校生の期待するものとは明らかに違うものだもの(そいえば、当時はデトロイトメタルシティーという漫画が流行っていた)。

また「我ら、時」は変則的な内容、流通だったので、スタジオ録音の純粋な新曲を流通させるのは恐らく「毎日の環境学」以来なのではと思う。

 

<音楽を買うことについての個人的な話>

本当なら仕事が終わったらタワレコにでも行って「流動体について」を購入したいところところなのだが、僕は今インドにいるのでおあずけ状態だ。次に日本に帰るのは4月だか6月なんで、それまでは我慢することになる。多分その頃にはアルバムが出ているんじゃないかなど思う。

 

仕事が終わってもやってるタワレコは秋葉原にあって、僕は真っ直ぐ銀座線で神田まで行く。神田の江戸っ子寿司の寿司を食べて、美味しいと思う。その後JRに乗って、秋葉原のヨドバシに向かう。秋葉原のヨドバシは人でまだごった返していて、新しいスマートフォンや便利家電に少し目を奪われそうになるが、エスカレーターを駆け上がる。タワレコには販促用のポップがでかでかとあって、Lifeなどが一緒に並べられている。紙ジャケットのCDはつるつるしたビニールで包装されている。一枚、手に取りレジに並ぶ。ポイントの仕組みが複雑になっている。既にタワレコのポイントカードはない(推測です。昔黄色いカードすごい貯めてた)。黄色い袋をカバンに突っ込み、バス亭に向かう。

秋葉原からバスで自分が住んでた街まで帰る途中で歌詞カードを見たりすると昨年ライブで見た風景、心象がありありと浮かんでくる。家に帰って、手を洗い、着替えたところで、CDをセットする。ステレオから音が聴こえる。

 

 以上の想像は東京にいた場合のタラレバで、僕がそれこそ林檎ジュースを飲むがごとく、あびるように音楽を漁っていてたころ、音楽を聴くという営みはこのプロセス全てのことだった。

 音楽からの刺激に耐性がついた年になり、Apple musicで世界中の音楽がいつでも聴ける2017年。僕としては、Apple musicなしで暮らす事はもはや想像出来ないが、音楽を聴く経験の質は過去と変容している。それは勿論、自分自身の変化が大きくアナログ云々が言いたいわけではない。

ただ、音楽と人の関係は、イヤフォントと鼓膜と脳で成り立つわけではないということを自覚しないと、と思うのだ。CDを買う経験、予めレビューを読む経験、あるいはあえてからっぽにしておくなど、受け入れる器としての個人が音楽のためにスペースを準備してはじめて、音楽は複合的かつ相互的な個人の経験として内面化していくものだ、多義的に。そういう意味では、胸をときめかせCDを買いにいける(という想像ができる)小沢健二の新譜リリースは幸福だ。

すぐに買えない、ってところも(これは完全に自分側の理由だけど)オザケンらしくていい。配信はあるのかな。CDを買って聴きたいな。

 

<流動体について、について>

 昨年の5月、まだ日本にいた頃オザケンのライブに行った。何だか赴任の準備とかもあって、有給取れそうな雰囲気だったので、その日は朝から休んで予防接種を受けに行った。予防接種を受けた後、虎ノ門ヒルズでコーヒーを飲んで、汐留まで散歩して、ゆりかもめに乗った。小沢健二のライブを見るのは2回目で最初は「ひふみよ」ツアーのNHKホール公演だった。その頃僕はまだ大学生で、停電の夜に音楽が聴こえる、というような朗読が良かった。ライブのあと惚けてしまって、NHKホールから代々木公園をぷらぷらと散歩していたのを覚えている。

 

 昨年5月のライブ、魔法的については多くの方々がいろいろな場所で書かれている通り本当に素晴らしいライブだった。小沢健二はこのツアーの開催前に「昔の曲もやるけど、帰ったときに残っているのは新しい曲だと思う」というような発言をしていた。勿論そうだといいな、とは思ったが実際僕らはこれまでの曲が好きだから彼をもう一度見たいと思うのであって、未知の曲よりも好きな曲が聴きたいし、新曲には期待していなかった。

 

 ところが、実際にはこのライブで出会った7つの新曲はどれも驚くほど素晴らしかったのだ。というか感動してほとんど動けないくらいだった。あのどんな良い曲でも初見で好きになることってなかなか難しいと思うので、これはかなり工夫しつくされていたと思うよ。

 

 あのライブ中、目の前で言葉が生まれ変わっていくのを感じた。言葉とは人類のアーカイブであり、コミュニケーションツールであり、世界認識の手段である。

しかし、それ以前に言葉は有機体であるということを強く認識させられた。

彼の手にかかると、僕らが知っている当たり前の単語が全く別な意味を帯びてくる。それは彼が紡ぐという文脈にも勿論依存しているのだろう。彼の文学的才能と彼が2016年に紡ぐという複合的な文脈のもとで、言葉が細胞レベルで再構築されなおし、生まれ変わっていくのを感じた。それは即ち言葉の受け手である、わたしたちの世界の認識を変容させることであり、魔法だった。小沢健二の言葉を浴びながら浮かぶ心象風景や、想像力はこれまでの自分の外にあったものだったけど、やたら真実味があったのだ。あれは楽しい時間などではおさまらない、思考を強いる強烈な時間だった。

 彼の試みは言葉を有機的なものとして再構築することで、あまりにも情報が多く複雑な世界の中で彼がコアと思えるところに人々をフォーカスさせていくことだと思った。

 だからこそ彼の「日常に帰ろう」という言葉には違和感があった。これについてはいくつか思うことがあるんだけど省く。

 

 僕が特に好きだったのは「流動体について」という曲で、歌詞もメロディも今はうまく思い出せないけど、強烈に好きなフレーズがあったことと、「俺の生活ってのはつまるところこういうことで、それ以外はないよな」って思ったことを覚えている。

 帰るときに残っている曲は、確かに新曲だったので、びっくりしてしまった。

流動体について、が多くの人に届くように。

 

というか単純に、音源化してくれれば自分の好きな人とドライブしてるときに聴いたり出来るからさ、何だか羽田へのドライブとかで聴きたいような曲なんだよ。

魔法は続く。

 

追伸:僕らが旅に出る理由をMステで披露するらしいって、これも結構すごいよね。