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2月のこと

まとまりのないメモをだらだらと。

 

<沈黙について>

インドの夜8時は日本の23時半で、時差ってのは本当に鬱陶しいんだけど、ぴこーん!とiPhoneが鳴って開いてみてみると、女友達から画像が届く。拡大してから撮った写真でぼやけているが、分かるのは舞台に立つ窪塚洋介。つかキチジロー。舞台挨拶に行って生窪塚を見たらしい。

遠藤周作の「沈黙」をマーティンスコセッシが映画化したという説明は俺の文章にとっては完全に蛇足だけど、それが日本で公開されて、観たいなーと思いながら画像を観てもやもやする。

もやもやするのは未分化の気持ちで言葉にはならないけど、理由は簡単に分かって、一つは「沈黙」の映画を観れない嫉妬。もう一つはこの子の土足感。表面で親しく接しているというのが根本問題なんだけどそれは今更どうしようもないかな、と思っていたけどここで決意。二度と会わない。そこには明らかに発想のジャンプがあって、そういうところが気分屋と言われる由縁なんだけどまあとにかく、いいや。気分で動いて損しても決めたこと。

 

<思い出ロンダリング>

「思い出ロンダリングするじゃんあなた」

 俺は言う。

「なにそれ、意味分からん」

 説明できる気はしないので、答えない。

思い出ロンダリングなんて言葉は出任せだけど、そういうものがあるんじゃないかという俺の想像。特定の個人との思い出に付属するモノや音や風景から、その誰かを取り除き、他の誰か相手にそれらを使いまわす、というような意味で言っってみた。誰かとの思い出の場所を、「誰かとの思い出の場所」として保存せずに、他の誰かとの思い出の場所として塗り替える営み。二人で聴いた音楽や観た映画の中で気に入ったものを、新しい誰かと共有して二人の思い出の音楽や映画にしちゃう感じ。思い出洗浄。まあ思い出なんてそれを持っている人のものだし、音楽も映画も誰のものでもないし、咎める権利はない。そして、俺の気持ちに正当性なんてものは全く無い。思い出をとっておいて欲しいわけじゃない。ただ、使いまわされるくらいなら、全部忘れてくれるほうがマシだ、という気持ちは何に起因するんだろう。

 俺は個人の記憶とは別のところで、流れた時間というのは保存されているとどこかで信じていて、だけど思い出ロンダリングをするとその内容すらも洗い流されてしまうという妄想があるみたい。思い出の消滅というよりもはじめから存在しないような感じがして、それに怯えているって、これは何フォビア?

 

<優しい>

 その沈黙を観たという女友達は、ときたま僕にあなたは強い人間だよね?と尋ねてくる人で、自分自身強いか弱いかなんて分からないし、強くありたいとは常々思っているよ、というようなことをそのたびに伝えていたんだけど、その根本にずっとあるのはキチジロー。   

今たまたま恵まれているし、身体的にも時間的にも余裕があるから、振る舞いとしてまともっぽいことが出来ているだけで、それも言葉だけだし、状況が違えば、DV野郎にだってなり得るかもしれないというのを何となく分かっている。そこまで上手く伝えることは出来ていないけど、それは元々求めていなくて、でもこの映画を観て、俺の言っていることを分かってくれるかもと期待を持つ。もう会わないと決意してしまったのは少し残念だけど。

 彼女が映画を観た影響は、二度と会わないという決意以外にもあって俺はkindleで沈黙をダウンロードして、再読する。火、水、木と三日間、仕事が終わった後に家で読む。

 

<沈黙と服従>

 ロドリゴ神父がまさに棄教せん、というところで頭の中でカチっとリンクするものを感じる。ミシェル・ウエルベックが書いた服従という小説は、シャルリエブドー事件の引き金にもなった小説で、日本では大塚桃という匿名翻訳家によって訳され一昨年出版されている。どちらも主人公がキリスト教を捨てて転向するという小説なのだが、服従を読んだときに沈黙を思い浮かべることはなく、今回沈黙を再読するときにも最後まで思い出すことはなかった。

それはこの二つの小説の構造的が根本的に異なるもので、類似はその主題となる「転向」のみだからなんだと思うけれど、「沈黙」と「服従」という言葉自体の関連には興味深いものがある。

沈黙するのは神で、服従するのは人間だ。

ウエルベックは皮肉たっぷりに人間本性に合致した新たなシステム(裕福な生活・複数の女性)に一人の大学教授(そしてフランス社会全体)が服従していく様をかなりの説得力で描いたがこれはSFだ。ここでの服従にはある種の心地よさが含まれている。

 ロドリゴ神父はキリストを信じ、転んでも尚最後のパードレを自負する。彼は服従したのだろうか。彼には服従の持つ心地よさはない。服従していないなら何を棄て、何を所持しているのか。

 個人の信仰(≒大きな愛)―目の前で苦しむ人

 ローマ教会―沼地日本

 一神教―八百万の神信仰

 信仰の強さ-己の弱さ

 

 結論めいたものを求めているわけじゃなくて、沈黙という小説自体が、俺に寄り添うのを知っている。

 

<昨日と今日>

大切な人に自分の考えていることを分かってもらわなくちゃならない場面がたまにあってそんなときほとほと困り果ててしまう。確かに考えていることはあるんだけど、その考えにまだ具体的な言葉と筋道が装備されていないとき、抽象的で曖昧な言葉が一番的確にその考えのコンセプトを伝えられると信じて口に出してみるものの、結局向こうが求めているのは、そのまま理解できる解釈の余地なしって形にパッケージされた考えで、曖昧模糊な俺の言葉に機嫌が悪くなってしまう。

 そもそもはじめから理解可能な形で考えを伝えることなんて出来ない、というのは後出しじゃんけんで、一旦は考えを伝えることを了承し、トライした以上落ち度は俺にある。

 機嫌悪くなられて分かり合えなくても、その大切な人のことはちゃんと好きだと思う。思うけれど、その好きにこれ以上引っ張られていちゃダメかもな、と思う。

 

抽象的な言葉でも何となく分かることは沢山あって、話を聞いた人は自分の解釈と尺度で何となく俺の言っていることを分かった気になって、そこから想像力を勝手に膨らませて、この人はこういう人なんだと決め付けてもらって構わない。それで嫌われても、誤解だよとは言わないし、別に正しい理解も間違った理解も、人と人の間には基本的にはないんだ(あくまで程度の問題とは思うけど)。

理解を誤解の総体と呼んでもいいけど、そんなのわざわざ言わなくていいだろ、って思う。グラタンコロッケバーガーが小麦粉の塊であることと、その味には関係がない。

理解は理解だ。そして、それは俺の他人への姿勢でもあるのだ。

 

大事なのは、対話の積み重ねであって、質問であって、寝る前のまどろむ三十分のくだらない話であって、そういうものを俺は大切な人に求めていて、俺自身に課している。自分の考えなんて他人と作っていくものだし、時間が経つと変わるものだからさ、そんな信用して欲しくないんだ。という気持ちがどうやら根本にありそうだ、というのに気づく。

 で、俺は基本的に優しくありたいけど、そんなことはなく、大切な人には結構いろんなものを求めていて、そのせいで台無しにしたことがこれまであったような気もするし、これからもあるような気もするけど、きっと変わらない。ただ、それで失われるものがあるという事実をごっくん呑みこむことが出来るようになったと思う。

 

『昨日と今日が途切れなく続く世界で立ち去る人なんて本当はいないよね』

『人の生活にはパターンがあるけど、正解なんてないよね』

と僕は精一杯伝えようとする。これ以上は噛み砕けないと決めるのは俺で、それではダメかも知れないけど。だけど、今日は『けど』で止めておくのだ。俺は何も断言したくないモードなのだ。

 

 

<見送ることについて>

 ありがたいことにこっちに来てくれる人がいるおかげで、日本に帰る彼らを見送ることが最近ある。そこで俺は見送りが苦手なことに気づく。見送る側に立つことってこれまであまりなくて、見送ることを舐めていた。

 

誰かとバイバイするとき、相手が去って行くのを立ちすくみ、ただ眺めているというのは結構つらくて、俺自身ぷいっと後ろを向き、スタスタと振り返らず立ち去りたいんだけど、逆の立場ならちょっと嫌だと思うし、さらに振り返ったが最後しばらく会えないのと思うとなんだかやるせないから、適度なところまでちゃんと顔を見て、手を振っておこうと思うけど、適度なところが分からない。苦笑いしちゃったりとかして、言葉も出てこない。

本当はこういうときに、もう一度走って追いかけていって、我慢できずに恥ずかしい言葉を吐いうてしまうというのが相応しい気がするんだけど、しないのはその必要を感じないからで、それをしたら重たい。

 

見送りは淡々を行われるべきものなのだ。

別れ際、と呼ばれる時間が長ければ長いほど別れた後さみしくなる。別れ際に変な盛り上がり方をして、過剰にまた会おうねとかやるだけ後でさみしくなるし、せっかく過ごした楽しい時間が、そのあと寂しいムードのフィルターでしか眺められなくなるのは間違っている。

「大切な人としばらく会えない」という状況に相応しい言葉は愛情の言葉ではない。

どんな大切な人だとしても肯定できる別れの時間なんてものはなく、ここに来て互いの存在のありがたみを確認するなんてすべきじゃない。不透明な次を確約しようとするのもだめだ。

俺らはそれを軽くこなすしかないのだ。

見送られる側には行き先があるけど、見送る側はただここにいるだけで行く先がないから、バイバイした後、いつもぷらぷら散歩をしたくなる。

そして一人っていいなって少し思ったりするし、少し寂しいなって思ったりする。

 

<他人の言葉を借りるって事>

 誰かとふとした瞬間に打ち解ける体験って日本であって、それをインドでも再現できたらいいな、と思っている。誰かの言葉を借りて打ち解けるっていうことがあってもいいと思う。

 

 

<饒舌>

 突然終わる文章があって、もう少し饒舌に語ってくれも良いのにと思うけどページは沈黙している。物足りなさ、と物足りないが故の味わい深さが同居していて、俺はなんども言葉の続きを待ってしまう。カーヴァーとかはそういう小説が多い。

本は繰り返し読める。時を経て色んな自分がいろんな状況で同じ文章を読むのは不思議だ。読書を見くびっちゃいけない。読み返す自分が異なる位相に立つがゆえに、あらゆる読書体験は一度きりなのだ。

 

<論文>

会社の試験で論文を書かなくてはならないので、明日は一日中机に向かい続ける。受かれば一瞬日本に帰れるとか帰れないとか。