憧れの場所は遠いまま

日記を書こうと思っては身の丈に合わない事を考えてしまう。まとまらないまま書きかけの文章を放置する、ということが続いた。クリスマスのこと、年末の振り返り、新年の誓いなど書き始めるまではシンプルなのだが、いつもあちらこちら(音楽、過去、本の引用等々)に話が広がって収拾がつかなくなってしまうのだ。

 

僕がしたいことはとても単純で、朝起きて本を読み勉強し、会社で仕事をして家に帰り、コーヒーでも飲みながら文章を書く生活なのだ。ただの繰り返しに見えるけれど、気づきと変化は日々あるはずなので、それをじっくりと観察していたい。

 

社会人四年目も終わりに近づこうとしていて、僕はインドにいる。あと半年後には本社に戻るだろう。

 

2016年に一番好きな歌がある(また音楽の話に飛ぶ)。

“FRESINOがNYに発つ理由 今も知立の角に立つC.O.S.A.”

(「Love」KID FRESINO×C.O.S.A)

 

自分がND(ニューデリーのことです)に立つ理由。そんなものは適当だし、深い意味はないけど、それでもこの地に立つ理由はあると最近気づいた。

 

このブログのタイトルを「憧れの場所は遠いまま」にした話。

憧れの場所=インドのことだ。だけど、インドは僕にとっての長年の憧れの場所だったわけではない。ただ、僕が憧れる何人かの人々にとっての憧れの場所として度々挙げられていて、漠然と興味を持っていた程度だ。しかしインド赴任が決まってから、本格的に興味を持ち始めて以降、インドは僕にとっても憧れの場所になっていった。

 

インドを憧れの場所と呼んだのは小山田壮平だ。一昨日くらいASKAとのやり取りで話題になっていた。二人とも少し危ない感じがするけど、魅力的な人物だ。上手く言えないけど、父はChage&Askaを敬愛していて、僕はandymoriを敬愛していて、この二人の接近は父との和解のメタファーのような感じがした。日本に帰国したら会ってみたいと思う。まあいいや。

 

“憧れのインディアは遠かったけれど カータースタイル・フラットピッキングとケララ産できめて 午前5時までならステップバイステップ踊ってあげるよ

そして僕の部屋においでよ“(「Follow me」 andymori)

憧れのインディアの熱狂からそして僕の部屋においでよ、という半径3メートルの世界への帰結。勿論この憧れには、色々な含意がある。インドは単純に煌びやかな場所ではない。貧困があり、生と死の境界線は薄く、いつも隣り合わせにある。小山田壮平は19歳のときにインドを訪れたという。彼のここでの経験は彼の世界観に少なからず影響を残している。

一体どんなところなんだろう、自分の目で確かめてみたかった。

 

andymoriに加えもう一つ大きな要因がある。

遠藤周作の「深い河」、そしてそれに影響を受けたといわれる「Deep River」という宇多田ヒカルのアルバムだ。母なる大河としてのガンジス、あらゆる「個」「違い」を呑みこみ流れ続ける大河をこの目で見てみたかった。平成生まれの根が深いアイデンティティ問題解決の糸口があるのではともくろんでいた。

 

混沌と狂乱と悠久のときが流れるインド。憧れは膨らんでいた。

良い年こいて自分探しか、と言われたら半分くらい頷いてしまうかも知れないが、東京にかなりの息苦しさを感じていた僕にとって、インド勤務は魅力的な選択肢だった。

東京にいる大切な人たちとしばらくさよならするのは寂しかったが、それでも一生会えないわけではないし、同じ時間を東京で過ごすより得られるものは大きそうに思えた。経験の効能は複利で膨らんでいくという考えがあるし、それを信じたい。若いうちに良い経験を積んでおけと大人たちが言うのもそれを直感的に理解しているからだろう。

 

そしてついにインドに来た。

半年経って、憧れの場所はどうだったか。答えは「遠いまま」だ。

 

正直に言えば、滞在半年でこの国について語る言葉を僕はまだ持ち合わせていない。ある一つの側面について、ある偏った見方で語ることは可能だが、それはただの観察でありインドが与えた内的干渉を語るわけではない。

インドに行って価値観が変わった、という話をよく聞くが、自分の価値観が変わったかというと正直よく分からない。そもそも僕はゆらゆらと外的な影響に晒されながら、代謝を繰り返しているようなゆるい価値観なので、そういう意味では日々インドの影響も受けているのだろうけど、例えば180度考え方が変わるというような経験は今のところない。

よく言うクリティカルなショックというのをこの国でまだ受けていない。

 

クリティカルなショックがあるインドは過去のものであり、既に発展している。

経験と内省というのは個人に依存するので、パーソナリティが原因。

そもそもインド経験が薄い、短い。

あくまでビジネスの側面ばかり観ており、その面ではむしろ違いは小さい。

観光で観るような濃縮還元的なインドでなく、生活の場としてのインドを観察している。

インドの典型的な経験が情報として出尽くしており、新鮮さがない

 

理由はいろいろ考え付くし、どれももっともらしい。

馬鹿馬鹿しいがインドで「普通に」仕事して生活していることに焦っていた時期があった。生きていることを日々ぎらぎら感じるなんて期待をしすぎていたのだ。ショックを受けたくてインドに来るなんて不純な動機だった。贅沢と消費を動機に働いていた東京の日々と同じじゃないか。

 

割と普通にやっているインド生活。今はもうそれで良いと思っている。

どこまで行っても仕事と自分は付きまとうことを経験として知れたのは良かった。

 

憧れの場所は遠いまま、なのだ。

 

ただ、じっくり観察する、手は抜かない、すぐにだらけてしまう自分に鞭打ちながら、日々の中でたまにはっとするような気づきがあればいい。