我時想う愛
我時想う愛、というのはslack(5lack)というラッパーのアルバムなんだけどとても好きなアルバムで真夜中に川沿いを散歩するときなんかに似合う。リリカルで、チルで少しセンチメンタルな音楽。
いつも想う 死ぬ前にきっともっといけたなんて思うんじゃないか
(「いつも思う」)
そういうことを日々思う。今年も一つ年を重ねた。
20代後半て人生においてどんな時期なんだろう。ラジカルな孤独と悩みは尽きず、仕事の責任が重くなるようなそうでないような。仕事は嫌いじゃない。どちらかといえば好きだと思う。
仕事をして、本を読んで、好きな音楽を聴いている。友達に会いたい日もあるけど、少し遠い場所にいるからしばらくはお預けだ。数えたら今年は70冊くらいの本を読んで、apple musicのおかげで日本にいなくても素敵な音楽にも出会えた。本を読んで、音楽を聴いて、友達と遊ぶ、というのが中学生のときから僕の人生の三つの基本路線なんだ。
変わったのは学校が仕事に入れ替わったくらいだ。学校と仕事ってそんなに変わらないと思いたい。責任がどうだこうだは言わないで欲しい。
学校に行くために生きていたわけではなく、そんなことを考えてはいなかった。何の為に生きているかはこれから決めることで自然と見えてくるだろう、と。
二十代後半、仕事をするために生きているのか、なんて考えてしまうのは何故だろう。
今と未来のギャップに期待できないからなんだろう。期待出来る未来が自分の想像力の中にしかないっていうのは不幸なことかい。
トワイライト別に悲しくない 消えていくわけじゃない 流動するだけだ
トワイライトあらゆることに 深い意味はない 笑っていればいい
(「トワイライトシティー」 andymori)
迷いまくってる人こそ人事の仕事は楽しいんじゃないだろうか。
サードプレイスなんていらない、というのが何となくここ数日頭にある言葉だ。
職場でも家族でもない第三の場所なんていらない。人生を区切ること自体がとてもむなしい。自己の喪失を前提として三つ目の場所という避難所を設けなくちゃならないことが嫌だ。
僕らにサードプレイスはいらない。すべてが生活の場だ。そこで消耗する必要なんてない。仕事を仕事を割り切ることがあって良いし、割り切らなくても良い。恋愛だって人間関係だって割り切ったり割り切らなかったりするのと同じように。
搾取と贈与が、努力と成果が、個人とチームが、やりがいと報酬が、意思と指示が、生活と労働がそれぞれ同じ地平で語れるようになるといい。
意味があることをしようとするから苦しいのであって、意味なんて相対的なものだっていうことはずっと分かっていたはずだ。