憧れの場所は遠いまま

キャンプと山と人事とインド

近頃の若い者は、なんて言いたくないよね

 僕はゆとり世代とかくくられると、すぐ反駁したくなるんだけど、世代論というのはとても便利だ。僕らの理解を隔てる溝を、そのままにしておいたまま、分かり合えないことをとりあえず了承できるから。

 

でも残念ながら世代論というのはもはや機能しない。昔はもうちょっと世の中が画一的だったらしく、機能していたみたいだけど、その頃は生きていないからよく知らない。

(~世代っていうのは、言葉としては正しかったけど、本当に世代をまとめて言い表すことなんて昔から出来ていないんじゃないだろうか、と思うけど)

 

僕らの世代、を枕にして語れることもいくつかあるけど、それは消費アイコン(遊戯王とかリアディゾン)に纏わるものであって、僕らの性向みたいなものをまとめて語るのは難しい。人間形成が活発な思春期及びそれ以降は、個々人の経済的格差から価値観まで多様すぎると思うのだ。

 

だけど、近頃感じることがある。

 

 

仕事柄、僕より二つから三つ以上下の年齢の人と関わるときに、「あっまた、こういう感じだ」と思うことがあるのだ。感覚的には10人中6人くらいで、勿論あくまで僕の主観的な体験と感覚のことだから全然あてにはならない。関わる人数が100人に増えたら、みんな全然違うタイプで100人中6人のままかも知れない。

 

まあ何かと言うと、彼、彼女らは『与えられることが当たり前』、という感覚を持っていると感じるのだ。

教えてもらえる、トラブルは救ってもらえる、外部要因が原因なら迷惑かけても仕方ない。

ありがとう、とごめんなさいの欠如した場が作られている気がする。

 

いや、悪いことだとは思っていないよ。

むしろ時代は「してもらって当たり前」が標準なのかも知れない。

無料で便利な情報にアクセス出来るし、日本のサービスの行き届き具合と言うのは驚くレベルだ。デジタルネイティブ世代からすると受け取るものに対して、自分がPayするという感覚はないのかも知れない。SNS上のログイン、ログオフが人間関係のスタンダードになっており、時間的継続を前提とした人間関係は家族に限定される。継続的な人間関係は互酬性に基づき、そこでは感謝やごめんが大事になるけど、家族では省略されうるだろう。

また、自ら発信することはあるけど、それを誰が受け取るかは分からない。宛先不明の発信を相互に行いながら、受け取る価値のあるものを自ら取捨選択している。そこにGive&Takeの互酬性はなく、ランダムな贈与が匿名的に複数行われる。1対1の身体的なコミュニケーションは発生しづらい。

 

思いつきで書いてみただけど、自分でも世代とか言い出しちゃった。

経験が似通っていたとしても、現象(個人の傾向)は違うっていうことだけは自覚しないといけないと自分にももっとおっさんにも言い聞かせないと。