憧れの場所は遠いまま

キャンプと山と人事とインド

世界観

マレーシアでの出張を終えてインドに帰ってきたら、また大気汚染が悪化していて、やれやれという感じ。

 

僕の住んでいる街には冬が訪れつつあって、朝はとても寒い。日本の冬のはじまりはきっとこのくらいだと思う。

空気は白いけど、はぁって息を吐いたら、さらに白い自分の息。

この真っ白な大気には寒暖差によって発生する霧も含まれているのだろう。

30メートル先も見えないというのはげんなりするけど、幻想的な光景だ。

 

海外から戻る先が海外というのに違和感もなくなった。

変な話、東京での生活よりこっちの生活の方が地に足がついている気がするのだ。消費に目が眩むことはなく、また良くも悪くも日々戦っている。

日々感じることは沢山あるけど、価値観が変わったりするというほどのことは今のところない。

ただ地に足がついている感じがする、それだけだ。

大げさなことは望まず、僕はじっと深淵を眺めていたい。社会の芯にゆっくりとつながっていきたい。

 

マレーシアからの帰りに空港で飛行機を待っているとき、どっと疲れているのを感じて、飛行機では音楽を聴いてゆっくりすごそうと思った。Free Wi-Fiに繋いで、クリープハイプの『世界観』というアルバムをダウンロードした。

 

ただ、乗った飛行機は結構ひどくて、笑った。隣の人、何日シャワー浴びてないんだよ、って感じだった。汚い革ジャンが僕の席に侵入してくる。出来れば文句言いたくないんだけど、やめてね、って言えるようになったのは良いことなのか、よく分からない。

 

クリープハイプというバンドは大学4年生のときに知った。2012年当時、すごく好きだった人とさよならしていた僕に、愛の標識という曲が刺さった。銀杏BOYZに出会ったときと同じで、『あ、こんなこと思っていいんだ?』という驚きがあった。

別れた相手に「死ぬまで一生愛されていると思ってたよ、信じていたのに嘘だったんだ」ってすごいな。まあこの曲を聴いているときだけは、ちょっと同じことを思わせてもらった。

 

人生は思春期を終えた後の方が遥かに長い。クリープハイプは青春の先、厄介なものを抱きかかえて、否応なく生き続けることのどうしようもなさを捉えるのがとても上手い。青春のどうしようもなさよりも、もっとどうしようもない大人のどうしようもなさ、その中の一筋の光。ときにドブネズミのような美しさを捉える。

言葉に出来ないことを、言葉に出来ないとちゃんと言う、答えのないことを答えがないという、その誠実さが好きだ。

 

僕は普段、飛行機に乗るときはマスクをするのだけれど、この日だけはマスクを置いてきてしまった。隣のおじさんの匂いを我慢しながら、アルバムを再生する。

 

手、という曲が最初の曲だった。手と手、という曲があったけど、繋いでいた手がなくなっちゃったのかな、と気づく程度にはこのバンドが好きだ。

最初の3曲の疾走感を経て、若干ブラックな風味の曲が続く。聴いた事のあるラッパーの声で、チプルソだった。チプルソって音源だとむっちゃエモいよな、ってことを思い出す。相性の良さはあるな、と思う。

あと、このバンドは「この歌を歌っている自分」を歌にするのが上手い。メタ的な歌。

 

昔あった痛くて、痛くてどうしようもない感じは少し軽くなっていて、少し前向きな感じがしたよ。帰ってきてからもずっと聴いています。

 

 

 

 

幸せを求めているつもりで、「幸せを求めている人生」を求めている人がいる。勿論そういう人は幸せにはなれない。走ることが本当の目的だから。

本人はただ幸せになりたいだけ、と言う。

でも幸せを感じた途端、さらなる幸せを求める。資産を増やし、消費を拡大する、もっと良い暮らしを希求する、もっと素敵な人間を求める。

安定はない。安定が欲しい。安定は嫌い。

そうこうしているうちに年を取る。

 

いやね。あたしは幸せも求めないし、幸せを求める人生も求めない。

いまが幸せよ。

 

このアルバムを聴いていて、そんなことを思いました。