憧れの場所は遠いまま

キャンプと山と人事とインド

世界観

マレーシアでの出張を終えてインドに帰ってきたら、また大気汚染が悪化していて、やれやれという感じ。

 

僕の住んでいる街には冬が訪れつつあって、朝はとても寒い。日本の冬のはじまりはきっとこのくらいだと思う。

空気は白いけど、はぁって息を吐いたら、さらに白い自分の息。

この真っ白な大気には寒暖差によって発生する霧も含まれているのだろう。

30メートル先も見えないというのはげんなりするけど、幻想的な光景だ。

 

海外から戻る先が海外というのに違和感もなくなった。

変な話、東京での生活よりこっちの生活の方が地に足がついている気がするのだ。消費に目が眩むことはなく、また良くも悪くも日々戦っている。

日々感じることは沢山あるけど、価値観が変わったりするというほどのことは今のところない。

ただ地に足がついている感じがする、それだけだ。

大げさなことは望まず、僕はじっと深淵を眺めていたい。社会の芯にゆっくりとつながっていきたい。

 

マレーシアからの帰りに空港で飛行機を待っているとき、どっと疲れているのを感じて、飛行機では音楽を聴いてゆっくりすごそうと思った。Free Wi-Fiに繋いで、クリープハイプの『世界観』というアルバムをダウンロードした。

 

ただ、乗った飛行機は結構ひどくて、笑った。隣の人、何日シャワー浴びてないんだよ、って感じだった。汚い革ジャンが僕の席に侵入してくる。出来れば文句言いたくないんだけど、やめてね、って言えるようになったのは良いことなのか、よく分からない。

 

クリープハイプというバンドは大学4年生のときに知った。2012年当時、すごく好きだった人とさよならしていた僕に、愛の標識という曲が刺さった。銀杏BOYZに出会ったときと同じで、『あ、こんなこと思っていいんだ?』という驚きがあった。

別れた相手に「死ぬまで一生愛されていると思ってたよ、信じていたのに嘘だったんだ」ってすごいな。まあこの曲を聴いているときだけは、ちょっと同じことを思わせてもらった。

 

人生は思春期を終えた後の方が遥かに長い。クリープハイプは青春の先、厄介なものを抱きかかえて、否応なく生き続けることのどうしようもなさを捉えるのがとても上手い。青春のどうしようもなさよりも、もっとどうしようもない大人のどうしようもなさ、その中の一筋の光。ときにドブネズミのような美しさを捉える。

言葉に出来ないことを、言葉に出来ないとちゃんと言う、答えのないことを答えがないという、その誠実さが好きだ。

 

僕は普段、飛行機に乗るときはマスクをするのだけれど、この日だけはマスクを置いてきてしまった。隣のおじさんの匂いを我慢しながら、アルバムを再生する。

 

手、という曲が最初の曲だった。手と手、という曲があったけど、繋いでいた手がなくなっちゃったのかな、と気づく程度にはこのバンドが好きだ。

最初の3曲の疾走感を経て、若干ブラックな風味の曲が続く。聴いた事のあるラッパーの声で、チプルソだった。チプルソって音源だとむっちゃエモいよな、ってことを思い出す。相性の良さはあるな、と思う。

あと、このバンドは「この歌を歌っている自分」を歌にするのが上手い。メタ的な歌。

 

昔あった痛くて、痛くてどうしようもない感じは少し軽くなっていて、少し前向きな感じがしたよ。帰ってきてからもずっと聴いています。

 

 

 

 

幸せを求めているつもりで、「幸せを求めている人生」を求めている人がいる。勿論そういう人は幸せにはなれない。走ることが本当の目的だから。

本人はただ幸せになりたいだけ、と言う。

でも幸せを感じた途端、さらなる幸せを求める。資産を増やし、消費を拡大する、もっと良い暮らしを希求する、もっと素敵な人間を求める。

安定はない。安定が欲しい。安定は嫌い。

そうこうしているうちに年を取る。

 

いやね。あたしは幸せも求めないし、幸せを求める人生も求めない。

いまが幸せよ。

 

このアルバムを聴いていて、そんなことを思いました。

 

 

 

冬へと走り出そう

11月26日

 

インドの大気汚染は11月初旬に比べれば大分ましになった。
今日なんかはしっかり青空が見えた。霞がかった陽光がまぶしくて、4月の日差しみたいな感じがした。期待と不安が入り混じった、少し痛いような陽の光だ。

ミシェル・ウエルベックという作家が素粒子という作品の中でこんなことを言っている。
「年齢のオブセッションって、すごく早くから始まるのよ。二十五歳でもそうなっている人がいた。しかもあとは悪化するばかり」

 

インドで日々仕事をする中で、苦しさというのには馴れてくる。人の適応能力はすごい!と思う。すると、若いからだよとか言われる。そうなのかも知れない。
でも、僕はこの26歳という年齢と上手く折り合いをつけることが出来ない。いや、折り合いをつけられない自分を許していたい。

 

昨日夢を見た。僕は大学のサークルに顔を出していて、そこにいる二十歳の見たこともない女の子を好きでいる。二十歳の女の子、っていうものの懐かしさも相まって、僕はとても深い愛情を感じている。すごく一緒にいたいし、これから先、あの頃の自分が出来なかったような素敵なことをしてあげられる自信に満ちている。そして、何よりも若さを取り戻したような気持ちがして、とても幸福だ。

 

朝目が醒める。いつもの壁がある。薄暗い陽の光の中で、僕は自分の年齢が二十六であることを確認し、絶望的な気持ちで顔を洗いに行く。鏡に映る自分の顔が二十歳の頃とどう変化したかなんて分からない。でも、二十歳の顔ではない。

 

僕は曖昧な期待を人生にしない、と誓った。二十四歳のときだ。自分がつかめるものがあるとしたら、それは摑むことを目標にし、それに向かって漸進的かつ具体的に努力したときにだけだ。世界が無条件に広がっていくことは今後あり得ない、と。何かを楽しみにするのはもうやめよう、と思った。

曖昧な期待だけで人は生きていける。だけど曖昧な期待を失っても人は生きていける。

リスクヘッジだが健全な考え方だと思った。

 

二十四歳か、まあ若いじゃないかと今の僕は思う。
つまり年齢へのオブセッションは悪化していくのだ。
エイジング社会学という授業に大学のときに出席していた。老いとどう付き合うか、老いが持つ価値についての授業だ。僕は老いが、こんなに精神的にダメージを与えるなんて思っていなかった。


若さってのは傲慢だ。二十六歳でこんなこと言ってたら、嫌な気持ちになる大人もいるだろう。若さは傲慢だ。二十六歳になっても、自分のことなんか考えたくないけど、ずっとここにいると向き合わざるを得ないし、その時間が少し長いよ。世の中の役に立ちたい。

銀杏並木のセレナーデ

少し前の話だけど、ボブディランがノーベル文学賞を受賞した。僕はボブディランのことをほとんど知らない。

Like a rolling stoneという曲が好きというだけだ。他の曲も何曲かは知っているけど、その程度だ。Like a rolling stoneは「アイデン&ティティ」という映画の主題歌だった。

 

いつ観たんだっけかな、思い出せやしないけど親父の部屋で観たことだけは覚えている。なぜなら親父の部屋にしかDVDプレーヤーが無かったからだ。ツタヤで借りて、親父が仕事に行っている間に見たんだ。高校2年か3年くらいだと思う。

だから多分10年くらい前のことなんだ。その頃はまさに音楽に熱中していた頃で、音楽に関する映画も観ていた。さらば青春の光、とかLost in Translationとか、その系譜に「アイデン&ティティ」もあった。

 

峯田和伸と麻生久美子の二人の映画だ。映画自体はすごく面白いというわけではなかったんだけど、なんだかアパートの風景が頭にずっと残った。その映画にはボブディランが出てくるのだ(もちろんキャラクターとして)。

やるべきことをやるだけさ だからうまくいくんだよ」と言う言葉が残った。

僕もやるべきことをやろう、と思って受験勉強に励めたような、励めなかったような、あの受験勉強ってやつは一体なんだったんだろう全く。

 

そして、男女が歩いている姿とアパートの景色が頭に残る映画ってのは、僕の中の良い青春映画の定義だ。中央線とアパートと夢と彼女とどうしようもなさ、は高校生の頃の僕の憧れだった。時間さえ経てば、いずれそこにどっぷり浸れるなんて思っていた。最近と言っても二年くらいまえだけど、「故郷の詩」という映画はその点が素晴らしかった。

 

中3から高校1年の僕には銀杏BOYZの音楽が好きだった。

あまりにも、あまりにもな所があって、好きとは言いたくなかったんだけど、峯田和伸の歌と言葉があまりにも響きまくっていた時期があった。多分中3のときだ。

劣等感と自己嫌悪にまみれた日々をより深く追い込む音楽だったのかも知れないけど、救われていた。僕は誰かを大好きって言いたかった。好きな人のために死にたかった。こんな僕を誰か見つけておくれよ、僕は君が大好きなんだ、って好きな人もいないのに思っていた。

たまにスペシャとかでオンエアされるライブの光景が本当に壮絶で綺麗で、汚かった。

結局僕は銀杏のライブに一度も行ってないな。銀杏を好きっていうと、「銀杏を好き」というキャラがつくくらい強烈だったから少し距離を置いていたんだよ。でも、ロッキンオンジャパンのインタビューとかしっかり読んでたよ。

 

ふと思ったけど、銀杏BOYZは好きな音楽のワンオブゼムではなく、銀杏BOYZを聴く事で、僕はより一層音楽に救いを求める人になったのかも知れない。良い、悪いとかじゃなくて、僕はそういう青春時代を選んだ。

 

今、完全に思い出した。銀杏BOYZのアルバムが出た日、僕は津田沼のDisk Unionにいたんだ。何だか話題になっているけど、どんなバンドかは知らなかった。その頃はYoutubeなんてなかった。二枚同時発売で、僕は「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」を視聴した。

なんだか五月蝿い歌だな、二曲目「Skool Kill」にやられた。この歌ほどではないが、後ろめたいながらに抱える願望をすくいとって大声で叫んでくれた。救いだった。くそな自分を許してくれる音楽だった。その場で買って、次の日には友達に薦めていた。

 

その頃の峯田くんと今の俺は同じくらいの年だと気づいた。銀杏BOYZってすごくかっこよかったってことが良く分かるよ、全く、僕は何をやっているんだか。

当時、朝焼けニャンニャンというブログを彼はやっていて、そこで今の俺と同い年の峯田くんがこんなことを言っている。

『じっさい温かい家族空間を作るとゆーのはなかなか難しいことなんじゃないのかなーと思う。(なにを言ってんだか。) 今の僕にはとてもじゃないが家庭はもてない。一家の主になどなれるわけがない。』

僕もまったくもってそんな感じなのだから嫌になっちゃうよね。友達が結婚していくと自分も出来るくらい大人なのかな、とか思うけど、そんなことはないはずだっていつも思う。

 

ばらばらとした文章だ。

でさ、とにかくボブディランが受賞してからなんとなく峯田くんのことを考えていたんだ。

そしたら今年、峯田くんと麻生久美子のドラマがやっていたことを思い出した。

奇跡の人、という話だ。

鉄板ペアだな、とかいいながら見ていなかったんだけれど、昨日第一話を見たら、すごく良かった。キャラクターが良い。僕が好きだった頃の峯田のまんまって感じだった。

これから毎晩一話ずつ見ていくことにしようと思う。

 

 

来週はマレーシアに出張に行く。デリーにも少し飽きちゃったからいいかな。みんなの前でアピールできるようしっかり準備しよう。

アンガージュマンとエンゲージメント

 来年日本に帰ったら九州旅行をしたくて色々調べていたら、まとめサイトの多いこと。絶対に行くべき鹿児島50のスポットとか(多いよ)とかベストグルメ10(コンセプトばらばら)とか、凄く沢山まとめられている。

 便利なんだけど、なんだか白けてしまった。自由な旅なんて思いついた瞬間だけで、実際計画を練り始めたらその内容は時代と社会に大いに拘束されるよな、と思った。

 なんだかそういう話があったよな、と思っていたらアンガージュマンという言葉がふと思い出され、Google検索してみたら「Engagement」のフランス語読みだった。便利だ。ちょうどEngagementについて考えなくちゃならないことから逃避していたので、笑ってしまった。逃げられない。

 

 Engagementというのは人事のここ数年のトレンドワードの一つで、『企業の目指す姿と個人の目指す姿の一致の度合い』、という風に私は理解している。

 愛社精神や帰属意識とは若干異なる概念で、従業員、会社双方の自発性を前提としている。主体性を持つ個人が共感、理解できるよう企業は自らの目指す方向を示し、個人を振り向かせるとともに、企業自身も個人の方向性に沿って自ら軌道修正を行う営み、ということだ。

 Engagementの高さは、企業の売上げや持続的成長に寄与するという研究結果があることから、これを高める施策が人事のトレンドになっている。一般的にEngagementが高いとされる企業はGoogleやApple、Star backsなど。一方で、ある調査によれば日本人は企業に対するEngagementが低いとのことだ。分からんでもない。

 

 Engagement施策は企業の数だけある。

広く応用可能なBest Practice的な施策も考えうるが、重要なのは企業特有の内外環境に依存したOptimum Practice的なものである。なぜなら、Engagement施策の目的はあくまで「自社」に人材を結び付けておくことだからである。他社にも同様の施策があるのなら、「自社」で働く意味が薄れてしまう。

 さて、ここで「HRの独りよがり」に気をつける必要がある。人事で考えたユニークなEngagement施策より、「半径10メートルの職場環境」の方がよっぽど機能するというのは想像に難くないだろう。シンプルに言えば、自らを導くマネージャー、尊敬できる先輩、頑張りやの後輩、という環境があり、「ここで頑張ることが私にとってプラスになる」と考え、行動できることが、高いエンゲージメントそのものなのだ。HRがすべきことは、そういった環境を企業内に担保し続けることだ。会社である以上、職場環境、職務内容はいつでも変わりうる。変わった後でも、エンゲージメントを損なわせない企業環境を整備するのがHRの仕事だ。

 

 これらを踏まえた上で、Engagement施策を考えるうえでのHRのターゲットは下記の通りだと思う。

1.企業理念の行動規範化とロールモデルの量産⇒企業の方向性と行動規範の見える化 

2.チーム環境の平準化⇒この人達と一緒に頑張りたいというチームを全社的に担保

3.挑戦を促す施策と失敗を許容できる制度(+事例)⇒職務内容+αの挑戦を認める風土

4.金銭的報酬の市場性担保⇒やりがい搾取を許容しない

 実際にアクションプランを検討する際にはもっと考えることもあるだろうし、施策レベルでは膨大なアイデアが出てくるだろう。ぺーぺーの僕の頭の中は浅いけど、まあ軸はこれかな、と思う。

 

 いま報奨制度を作ろうとしている。面白いものにしたいな。報奨制度(Employee Recognition/Employee Awards)はEngagement施策の一つとして、少なくても東南アジア各国では一般的である気がしている(体感として)。日本でも改善提案等に対して報奨制度を設けている会社は多いと思うが、副次的な福利厚生制度という位置付けが主であると認識している(僕の個人的な認識です、日本で改善提案なんかしなかった)。

 

 ここで働くのが自分にとっての最善解って、思えるのは素敵だ。

 そう思う一方、そういう状況を他人に求めることには違和感がある。ありもしない「みんな」のことを考える仕事なんてあまりにも傲慢で馬鹿かもと思うよ、いつも。大衆なんていないって小沢健二も言っていたし。でも、とりあえずは考える。ところでアンガージュマン、スーパーマン的な、アンガージュする“人”的な意味かと思っていたよ。勉強になった。

 

 

空港にて

音楽と人生の話を書き終わらない。今月中には。

 

 

先月末、空港で飛行機を待つ間に書きかけにしてしまった文章があったのでそれを載せたい。

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2016年10月27日のこと。


今僕は、インディラガンディー空港にいて、待ちぼうけを喰らっている。
いくら待ったところで、来るのは飛行機なんだけど首を長くして待っている。
考えてみると僕は空港に来る前から、インドに来る前から、社会人になる前からずっと何かを待っている気がしている。何を待っているのだろう。待ちぼうけ、というのは正確な言葉ではない。

今はインド時間の20時だ。

空港には17時に来て、今日から日本に一時帰国する予定だった。

予約していた19時発の便に乗るため、チェックインカウンターで搭乗手続きを済ませようとしたところ、お姉さんに「実はOved bookedなんだ」と告白された。

 Over bookedというのは予約数が座席数を既に超えているということで、つまり僕の席がないということだ。
 予約したにも関わらず、予約数が座席数を超えるようなことは偶にあって、上手く転んだ結果エコノミーからプレミアムエコノミーに無料で変更してもらったことが過去にある。だけど、今回のように席自体がないというのは初めてだった。

 こういうトラブルでも、「You have 2 options, you can change the flight or wait here til check-in limit」などという具合に問いかけてくるから、この国は面白い。いやいや、オプションでも何でもないでしょう、という具合だ。

 結果、キャンセルし深夜発の飛行機に変更してみた。キャンセル料及び振替便の費用は勿論航空会社負担だ。明日は日本で髪を切ってお寿司を食べるくらいしかやることはない。

 ところが、変更した航空便は深夜1時発で、まだ搭乗手続きすら始まっていないため、ラウンジで寝ることも出来ない。僕はなんとか時間をつぶす必要がある。まず、空港の中を散歩してみたのだけれど、立ち食いのコーヒー屋さんが数件あるくらいで、ここにはゆっくり出来る場所はない。いろんなところに座って色々な国の人の顔を見るのが好きなので、ぷらぷら位置をずらすけど、椅子が硬くていやになる。

 だから人と話す。いきなり話しかけるのは恥ずかしいので、電光掲示板を見に行くふりをして「ちょっと荷物みておいてくれませんか」とお願いする。すぐに戻ってきて、なんだか悲しそうな顔をしてサンキューといえば、どうしたのと尋ねてくれる。
「飛行機がover bookedで、別な便に変更になったので待っているんです」
「私も飛行機がディレイになって」
「何時の便?」
「一時過ぎよ」
「同じくらいだ、一時半。いったい何時にチェックインできるんですかね?」
「早くても、9時半ね、早くても」
「どこにいくんですか?」
「チューリッヒ、あなたは」
「東京に帰るんです、チューリッヒいいなあ、すごく行ってみたい、どのくらいいくんですか?」
「長い間よ」
「いいですね、長い間滞在したいです」
「あなたは東京に住んでいるの?」
「いや、ニューデリーに住んでいます」
「でも出身は東京なのね?」
「はい」
「ニューデリーのどこ?」
「DCです」
「ほんと?すぐ近く!」
 チューリッヒに行くというインド人の女性はヨーロッパが大好きだと教えてくれた。自然が溢れ、美しい場所に「少し長い間」滞在すると言う。早口で僕に何しているの?どこで働いているの?何年いるの?と聞いてくる。僕は楽しくなって結局自分の話をしてしまう。僕にとって僕の話はどうでも良くて、僕がすごいと思うのは、スイスに目を輝かせるその表情で、そこには確信めいた憧れとそれに応えるだけの未来があるのだと感じる。欧州との距離と、休暇の捉え方が違うと明日の朝にはチューリッヒだー、みたいなことにもなるのだと思うとうらやましい。
 すごく単純なことなんだけど、インドに長く滞在したい外国人がいて、インドの外に長く滞在したいインド人がいて、ずっと日本にいたい日本人がいて、結局人って一人ひとりばらばらだなあ、と思う。世界の見え方は何によって規定されるのだろう。僕がインドに求めているものを彼らはが別な場所に求める。
 今いる場所から出て行きたいというのは幸せでない証拠だ。というようなことをミラン・クンデラが言っていたような気がする。

 空港での時間潰しに飽きたら近くのホテルにでも言ってご飯を食べようと思っていたのだけれど、いざ外に出ようとしたら、銃を持ったおじさんに止められた。一旦空港に入ったら出られないそうだ。映画・ターミナルみたいにならないといいな、と思う。煙草も吸えないなんてつらいな。

 そこでパソコンを開きブログを書こうと思ったわけだ。今日のここまでがまさにリアルタイムの僕でそこにリンクする時間について書くつもりだった。
 ところで空港にいる人は皆飛行機を待っている。ジャストインタイムでの動線はどこにもなくて、みんな暇を持て余している。世界各国の人が暇を弄ぶ場所ってなんだか面白いと思う。

 

 ブライアンイーノのmusic for airportsを聴いてもうしばらく時間をつぶします。

 

(中編)カータースタイル・フラットピッキングとケララ産できめて

前回までのあらすじ

自意識の目覚めとともにTHE BLUE HEARTSとパンクロックに傾倒した少年は、若者文化屋を訪れ、それ以外に無限に広がる音楽の存在に慄いた。音楽が無限にあることは知っていたが、多くのそれらは僕の世界の外部にある無視していい音楽だった。しかし目の前にはマーシーTシャツがある。マーシーは即ち内側の音楽であり、このTシャツと並べられる数多のレコードも本来、少年とつながる内側の音楽である気がして、僕は自分の世界の狭さに落ち込むとともに、音楽を知る、ということに強烈な憧れを覚えたのだった。

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同世代の若者よりも沢山の音楽を知っている、と思ってたけど井の中の蛙。そもそも知識を争うものじゃないけど、もしこのYouth Recordsを自分の居場所に出来たら、そんなにカッコいいことはないだろう。

その年の誕生日(2004年か2005年)、僕レコードプレイヤーを買った。Audio Technica製で今年の夏、インドに行く直前まで使っていた。このレコードプレイヤーを持っているということが、大学生になって効いてきたりするのだが、当時はただの背伸びだった。これがあれば、とりあえずはYouth Recordsで買い物が出来る。

 

しかし、高校一年生の僕には如何せんお金がなかった。母親が偶に昼食代にと渡してくれる500円や1000円はその日のうちに既に聴いていたジャンルのCD代に消えていた。また、高校生になってからは部活に明け暮れ、友達とユースタ(カラオケ屋)に入り浸る日々だった。

つまりこれ以上余分に音楽にお金を使う余裕はなかった。そして、原宿が遠かった。

 

ある日、どうにかこうにか音楽好きな友達と原宿に行った。どういう話をしたか忘れてしまったけど、勧められて買ったのが、The Stone Rosesの「Sally Cinnamon」というEPだった(個人セレクトということもあり全体的に少し高めだったので、LPは買えなかった)。

 

ターンテーブルに載せ、飽きるほど聴いた。不思議と飽きなかった。

 

しかし原宿なんぞ滅多にいけるものではない。往復だけで2000円近く掛かるのだ。そんな原宿まで行けない僕が見出したのはインターネットだった。Youth RecordsのHPには毎月のお勧めの音楽というコーナーがあり、コメント付で何が良いとか書かれていた。このレコメンドを参考に津田沼のディスクユニオンでCDを漁った。

インターネットで音楽を探せるという発見は大きかった。Youth RecordsのHPのみならず、インターネットで音楽を調べることを学んだ僕は、好きなバンドがどんどん横に広がっていくのを感じていた。その頃、Youtubeは既にあった。今ほどコンテンツは無かったが、洋楽PV等はアップロードされており、新しい音楽との出会いの場として十分だった。だが、そのころからストリーミングの音楽というのはずっと心もとないと感じていて、好きな音楽なんかに出会うとそれをCDとして入手しないと不安な気持ちになる。

他に参考にしていたHPは「Wish You were Here」というページだ。その名の通り、ピンクフロイドのファンの方のページだったのだが、かなり最近の音楽までジャンルレスに紹介されており、かなり信頼していた。

 

今思うと高校一、二年生の時期の世界が広がり方のスピードは凄かった。一年間であんなに沢山のことを吸収していたなんて信じられない。勿論音楽だけではなく、友人や部活を含めた学校の出来事など、刺激があふれていた。きっと、今同じだけだけの学習材料が目の前にあっても、それを消化し、血や肉にすることは出来ない。新しいものを好きになったりすること自体が困難になっていると、感じる今日この頃。

そして、音楽の趣味・趣向というのはそこである程度決定的になっていたかも知れない。

 

その時期に僕が出会って好きになった音楽たち。

My Bloody Valentine, The Strokes, RIDE, Jesus& Marry Chain, Wannadies, Pale Saints, Pixies, Longwave, Black Rebel Motor Cycle Club, Swervedriver, Slowdive, Flying saucer attacks, Jazz Butcher, Pavement, Flaming Lips, Spiritualized。ここら辺はよく聴いた。

分かる人は分かると思うけど、Shoegazerと呼ばれるジャンルの音楽にどっぷりと使っていた。

 

その頃僕は惰性でダルイとか死にてーとか、萎えるとかよく言っていたんだけど、高校一年生のある日教室で死にたい、みたいなことを言ったら、そこまで仲良くなかった友達が「俺は死にたいよりもみんな死ねばいいと思うんだよね」みたいなこと言って、こわっと思ったんだけど、その後なんとなくマイブラを勧めたくなって、こういうのあるけど?って言ったらその友達はまさにマイブラが好きだった、という思い出がある。二人とも結局は同じ心境だったのかもね、って。マイブラやばいよね、とひそひそ話していた。マイブラってそういう音楽だった。

 

僕はShoegazerを中心とした90年代のUKロックがとても好きで、それに加えてUSのギターポップが凄く好きだった。これらの周辺に連なるブリットポップや、ネオアコをさらに聴いていた。俺は19歳になったときにはロディフレイムより良い何かを残したいな、音楽は無理だけど何かクリエイティブなものを残せるだろう、と漠然と信じていた。

 

このように音楽の幅が広がり、自然と日本の音楽にもいよいよ抵抗が無くなってきた。特に好きだったのがフリッパーズギターとサニーデイサービスだ。他にはナンバーガール、ミッシェルガンエレファントというド定番でたまらなく格好良い音楽が好きだった。

僕はなんだか一昔前の音楽、古くはないけどちょっと前、という音楽がやたら好きだった。現役では、くるりとフジファブリックが凄く好きだった。

 

その後もYouth Recordsには何度か訪れた。

あるとき、フリッパーズギターが好きです、と言ったら庄司さんはCandy Flipというゲイ二組のユニットを教えてくれた。ジムオルークやパステルズのレコードを買った。

 

そうこうしながら、高校一年生、二年生というのは世界が広がりまくっている気がしていた。むしろ時間が流れるというのはそれだけ世界が広がることと同意なのだと、そう当たり前に信じていた。

部活や受験のどたばたを音楽でどうにかやり過ごしていて、まさにミュージックブレスユー的に音楽があればあとは大丈夫っていう感じだった。

 

そして高校二年生の終わり頃、決定的な出会いをする。

僕にはセンスを信頼できる友達が何人かいて、そのうちの一人をライバル視していた。ライバル視するにいたるには紆余曲折があるのだが、僕と彼には共通点があり、それは二人とも木村カエラが好きだ、ということだった。

僕は木村カエラが好きだというのを公言していたが、彼はしていなかった。彼は僕以上に木村カエラを愛していて、そしてイケメン、絵もうまい、服のセンスも良いというかなり美味しい立ち位置を確立していたため、そのイメージを崩せなくなっていた。たまに「俺が一番最初にsakusakuで木村カエラ見出したんだけど」と僕にだけ教えてくれたのが可愛かった。僕もsakusakuが大好きだった。彼はシャイだったので彼のために木村カエラの写真集を買っていってあげたことがあるくらいだ。

 

火曜日の夜にJ-wave木村カエラの「OH! My Radio」を聴いていたときに出会ったのがPerfumeだった。木村カエラはチョコレイト・ディスコをよく流していた。

今の彼女たちのイメージと異なり、当時の彼女たちは完全にアイドルだった。アイドルなんて、そんな恥ずかしいものに興味を持てるわけがない。なぜなら、アイドルのイメージも今とは大きく異なり、当時アイドルといえばグラビアアイドルくらいで、歌って踊るアイドルは全盛期を過ぎたモー娘を除いて本当に全滅しかけていて、アイドル好きなんて本当に可哀想な人という扱いだったのだ。実際、AKBはおろかアイドル好きな人なんて当時は一人もいなかった。

僕も最初はピンと来なかったし、正直に言えば、売れないアイドルってマジでこんなレベルなんだな、と思っていた。ところがあるとき、Youtubeでエレクトロワールドという曲を聴いて衝撃が走った。か、かっこいい。しかし、ツタヤでレンタルCDを置くほどポピュラーにはなっておらず、かと言ってアイドルのCDなんて買えるわけはない。

 

そこで携帯電話でパーフェクトスターパーフェクトスタイルだけ着ウタをダウンロードした。気がつけば再生数は400回を超えていたのを覚えている。木村カエラの紹介から数ヶ月経たないうちにPerfumeについて「音楽好きが認めるアイドル」という評価が広まっていたように思う。その評価は僕の背中を大きく押した。つまり俺はアイドルに嵌ったわけではなく、これまで磨いてきた鋭い音楽的感覚が彼女たちの音楽の素晴らしさを感知してしまったわけだ、と。

 

ただ、世間一般の認識とは大きなギャップがあった。僕がどんなに周りにPerfumeを勧めても、「え?アイドル聴いてんの?てか、これアイドルなの?」と。音楽に詳しいヤツという立ち位置から、アイドルオタクに落ちそうになっていた。一方、迫害されればされるほど信仰心は高まる、ではないが僕はPerfumeがどんどん好きになっていた。

 

半年くらい経ってようやくタワレコでCDを買うことが出来た。予備校で友達と話すときもほとんどPerfumeの話をしていたくらいだ。

 

僕のこれまでの音楽への気持ちは、つまることろ一枚のCD、一枚のMDに対する愛情だった。対象は円盤とそれがまわっている時間でしかなく、そのグループや人間には別に興味がなかった。それが変わったのだ。

 

そうこうしているうちに高校を卒業して、大学に入学した。結果的に僕の高校生活は「アイドルにハマッて」終わったのだ。

その後、Perfumeの人気は語る必要もあるまい。大学入学後、高校の友達に会うたびにPerfume好きが増えていって僕は嬉しかった。

ただ一つ述べておきたいのが、僕のPerfumeに対する気持ちには常に解散する前提があった。2007年当時、恐らく3年後、長くても5年後には解散するという前提があったからこそ、あそこまで熱中できたのだと思う。

 

さて、Perfumeの話は本題ではないのだが避けて通るわけにもいかず、寄り道してしまった。

次のフェーズに移ろう。それはandymoriとの出会いだ。

 

大学一年生の頃、僕は某国立大学に通っていたのだが、Youth Recordsはと言えば、エヌハリの屋根裏部屋から、原宿駅前の吉野家が入っているビルの何階かに移っていた。店は前より広く、以前のレコードコレクション、伊賀大介セレクトの古本、そしてカフェスペースまで出来ていた(豚丼がとても美味しかった)。若者文化屋の最終形態。2008年頃、東京で最高にヒップなスポットだったと思う。店でかかっているレコードは、18歳になった僕にとっても未だ手が届かないかっこよさを響かせていた。こんなジャンル聴いたことないというものから、なんだこのかっこいいパンクは?知らなかった、というような具合のものまで、僕は全然追いついていないのだ。しかし僕は僕なりの趣味・趣向を既に構築できていて、最初に感じたような萎えはもう当たり前になかった。

そして、そのYouth Recordsが若者文化屋の枠を超えて、音楽レーベルを立ち上げるという。フライヤーが店にあり、バンドの名前はandymoriというらしい。

 

Youth Recordsに対する僕の信頼は厚かったが、それはあくまで歴史の洗礼を受けて並ぶレコードたちのチョイスに対してであって、日本の新人バンドにはそこまで興味が無かった。それでもこれまでのこともあり、僕はアルバムがリリースされるとそれを手に取った。

 

まだ、終わらないや。出来事を削っているのに。

とりあえず、高校生までは書けた。次回一気に大学生編を書いてインドにつなげます。

 

つづく

(前編)カータースタイル・フラットピッキングとケララ産できめて

10/23 日曜日

今日はインドでカレーとクルフィ(アイス)を作りました。

中学生の僕とインドにいる今の自分を繋げるもの。それはもちろんこれまでの学歴だったり、就業経験だったりするわけだけど、例えば音楽について語るとき、約15年の曲がりくねった時間をまっすぐにつなげることが出来るかも知れないと思う。

 

キーワード:宇多田ヒカル、THE BLUE HEARTS(及びTHE HIGH-LOWS、クロマニヨンズ)、Youth Records、andymori

 

それぞれで一本くらい記事が書けるのだが、今日はすべてについて語ろう。

 

僕は中学一年生のときにはもう音楽が好きだったけど、その頃は自分の趣味趣向もまだ構築されていなかった。もっと小さい頃には親父が聴いていたチャゲアスが好きだった。

中学一年生になったころ、なんとなくダサく感じていて、そのとき一番好きだったのは宇多田ヒカルだ。人生で二番目に買ったCDが宇多田ヒカルの「Deep River」だった(最初はクリスティーナアギレラだった)。

 

2002年のことだ。

父の実家が長崎にあり、夏休み帰省したときに、一人で街を歩きながら買ったばかりのMDウォークマンでこのアルバムを聴いていた。その夏のヘビロテは、他にミスターチルドレンの「Any」と浜崎あゆみの「H」というシングルだ。

特に好きだったのが、宇多田ヒカルの「Final Distance」という曲と、浜崎あゆみの「Hanabi」という曲だった。

僕は私立の中高一貫校に通っていたため、小学校のときの友達とみんなさよならしてしまっていた。一人か二人くらいとは中学に入ってからも遊んでいたが、彼らともすぐに疎遠になってしまった。その夏、僕は小学校6年生のときに好きだった女の子が相変わらず好きだった。

Final Distanceの歌詞にある「I wanna be with you now」という習いたての英語力で理解したシンプルな願望、そしてHanabiにある「君のこと思い出す日なんてないのは、君のこと忘れたときがないから」という、自らの感覚を他人に言語化される経験の心地よさ。

一人で長崎の平戸、出島あたりをぷらぷら歩いきながら、寄る辺なく海を眺めていた。そのころ気持ちはもう思い出せない。景色も上塗りせれてしまって、正しい記憶かも分からない。長崎の海には匂いがない。あるいは町と海の境界が薄いせいで、すでに街自体が海の匂いなのかも知れない。坂を上れば、一望できるくらいの小さな街で僕はすごく好きだった。

 

ところで、宇多田ヒカルの「Deep River」というのは遠藤周作の「深い河」という小説に影響を受けて作られたという。深い河という小説は、日本人にとってのキリスト教信仰の可能性を描いた作品であり、八百万の神という多神教的価値観とキリスト教的一神教価値観が重なり会う光景がかくも雄大なインドを舞台に描かれている。母なる河・ガンジス川に導かれるようにインドを訪れる複数の日本人男女のそれぞれの視点で、物語が描かれる。特に「たまねぎ」を信じる大津という男の、寛大さと哀れさの描写は心打たれる。

大津のように生きたい、と実は思っている(僕は大津と同じ大学を卒業している)。

話が逸れた。何が言いたいかというと、宇多田ヒカルとインドもつながっていたのだ、と感じるのだ。深い河については、いつか書こう。すばらしい小説だ。

 

2002年末に浜崎あゆみが「Voyage」という曲をリリースした。さっき本当にもう何年ぶりかに聴いたら意外なほど、しっくり来た。数年ぶりに懐かしい曲を聴くとき、最初のサビくらいまででだいたい満足してしまってストップしてしまうのだが、最後まで聴けた。

「僕たちは幸せになるためこの旅路を行くんだ」

という極めて2000年代前半的な、良い意味で空っぽな歌詞。あの頃はメッセージソングが上手く機能しなかったら、こういうまん丸な言葉の歌が流行ったのだ。2016年の今、この歌詞とても重くないですか、簡単に飲み込めない。

 

2003年になると、周りがロック、そして流行りの洋楽を聴き始める。当時流行っていたのはロックは椎名林檎、バンプ、ハイスタ、洋楽はSUM41、Avril Lavigne、Blink182などだ。

 

そういう変化の中、僕もポップミュージックが途端に格好悪く見えてきたのだ。かと言って、洋楽を聴くにも英語が分からないし、何が良いとかの判断基準がない。既にみんなが聴いている奴を後追いするのも、良さが分からない分、なんだかみっともない。

親父のカードでツタヤに行って有名な音楽のCDを借りてくる。

そこで、出会ったのがTHE BLUE HEARTSだった。みんなブルーハーツとの出会いと、その素晴らしさってのは青春における必然のように語るけど、そこには個別の出会いがあるのだ。借りてきたアルバムは「LIVE ALL SOLD OUT」だった。

先ほど、浜崎あゆみのときに言ったが、自らの感覚を他人に言語化される経験がこのアルバムには詰まっていた。

ああ、俺のことなんて誰にも分かってたまるか、美しさというのは俺にしか分からないどこかにあるんだ、という尊大な自意識の胎動がそこにあった。ヒロトとマーシーの言葉が胸に響いてしょうがなかった。

 

「世界中に立てられてるどんな記念日なんかよりあなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう」

 

あなた、という呼び名が優しかった。肯定された苦しみをすくってくれた気がした。

このアルバムの中でヒロトが「やるよーやっちゃうよー」とシャウトする声が録音されている。僕は、何をやるかなんて決まっていないし、空っぽなのに、ずっと「やるよーやっちゃうよー」と思っていた。

一つ一つのメッセージが突き刺さるのに加え、なんだか、ベトナムに降る雨とか車掌さんとか文学的な歌詞はまだ見ない世界の断片を頭に埋め込まれているような気がして、胸が躍った。ビートルズが好きな友達に、もっといいバンド教えてあげるよ、と僕はブルーハーツを勧めていたりして、いまだに会うとその頃の話をして笑ったりする。

 

2003年から2004年頃にそうして僕はパンクを聴いた。中学2年生から3年生まではRAMONES、SEX PISTOLS、そこからメロコアのBad Religion、Rancidが好きだった。エピタフレーベルのバンドの中古CDをディスクユニオンで買いあさった。音楽が中心だった。何を言っているか分からないけど、その姿勢に間違いはないと信じていた。

日本のロックは全くと言っていいくらい聴かなかった。そのくらいブルーハーツが素晴らしくて、彼らだけが本物で、他はなんのメッセージもないじゃないか、と思っていた。狭量だった。価値基準が脆弱だった。

 

2004年に僕は中三で、ずっと昔にTHE BLUE HEARTSはもう解散していた。THE HIGH LOWSは最初あんまり好きになれず、でも聴いているうちにかっこよさが分かってきた。ロックンロールってのは何も劣等感と美しさを語るための言葉の音楽じゃあないってことが分かると色々な音楽が聴けるようになってきた。

2004年秋にハイロウズが「Do the Mustang」というアルバムをリリースして、そのツアーに友達を無理やり連れて行った(僕はテニス部だったんだけど、中学部活を引退してバンドを組んでいた。そのバンドのベース担当だ)。渋谷公会堂が初めてのライブだった。強烈だった。生でギターとベースとドラムが響くのかっこよかった。

アネモネ男爵という歌の中に、「人のために生きる退屈を知っている」という歌詞がある。

この言葉を理解するまでに時間がかかった。賛成したり反対したりを繰り返してきた。

ピンク色のバンドTシャツを買った。私服は全てロックTシャツにしたかった。

 

そして同じ頃、中三だったという風に記憶しているが、高一かもしれない。今、インターネットで確認しているんだけど、時系列が良く分からない。

ある日、雑誌を読んでいたら(確かメンズノンノだったと思う)マーシーTシャツを扱っている原宿の服屋が紹介されていた。モノクロのマーシーの写真だった。

その服屋(正確には雑貨屋というか、後で詳しく書きます)はYouth Recordsという店で庄司信也さんという方が主催していた。僕はテニス部の友達と総武線に乗り、原宿に向かった。

しかし、住所の場所に行ってみても看板もないし、店らしき建物もない。お洒落な住宅街の奥にさらに小洒落た民家があるだけだった。何度も行き来した後、そのお洒落な淡いグリーンの民家の扉が開いていることに気づいた。扉のすぐ横には小さく「Mister Hollywood」というモニュメントがあった。そういえば、Mister Hollywoodの上みたいなこと書いてあったなと思い僕と彼は店に入った。

 

おいおい、これが服屋ですか、というショックを味わった。

パルコで服を買う少年に看板のない服屋というのは衝撃だった。まず、服屋なのになんか良い匂いがする(お香初体験だったかも知れない)!そして中三の僕には少し早かった。服はとてもシンプルでこれがお洒落なの?とよく分からなかった。さらに値段を見て腰を抜かした。Tシャツが1万て、そんな世界あるのかよ、誰が買うんだよ、と友達と笑っていた(僕はエヌハリの服が今はとても好きです)。ダサい服来たガキがたけーとか言って笑っていたんだからとても、微笑ましい。

 

このエヌハリ本店の中の階段を上ると「若者文化屋Youth Records」という看板があり、狭い8畳くらいの店内にはまたお香の強烈な香り、所狭しと並べれたレコード達、そして頭もじゃもじゃの店主(庄司さん)、お目当てのマーシーTシャツ。溢れるほどにレコードがあったのだ。すべてが個人セレクトだ。ひとつひとつのレコードに庄司氏のコメントが書かれていた。

 

僕は、マーシーTシャツすら買えなかった。Tシャツ自体が5,000円というのもあったけど、何だかすべてに圧倒されてしまったのだ。一番近くに寄り添っていたマーシーが遠かった。強烈なお洒落があって、ここは自分にはまだ遠い場所だと思ってなんだか萎えてしまったのだ。音楽の豊穣さたるや、未知の世界が強烈だった。

しかし、ただ萎えただけではなくそこには憧れも強くあった。今日は買えなかったし、ここは遠い場所に感じたけど、まだ僕は15歳で、このまま音楽を好きで居続ければ当然知識量も増えて行き、いつかきっと僕もこういう城を築くことが出来るのではないか、と。

 

今日は中学までYouth Recordsとの出会いまでにします。

いざ書いてみるとまとまらないし、ブルーハーツとハイロウズの良さをさらっと伝えたかったんだけど、分かってくれるかな。

 

つづく。